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宗教について
日記で時々宗教がらみの事を書くので、立場をはっきりさせておこうと思う。

基本的に、学問としての宗教は大好き。
こんなに面白いモノは無い。何故人は宗教を拠り所にするのか。それだけを学ぶのも大変に面白い。

では、自分自身は何かの宗教を信じるのか、というと、実はあまりそういう方向には興味が無いのである。信仰というものに対しては無頓着というべきか。
だいたいが、「どちらかといえば教祖系」なので、宗教やるなら自分で開祖しますよ。その方が矛盾が無いし、第一儲かりますがな。

まあ、強いて自分の信ずるところを言うならば日本神道であろうか。家系的に神道禊教とは浅からぬ縁があるようなのだが、そういう部分よりもむしろ、アミニズム・シャーマニズムなどと微妙に交錯し独特の進化を遂げながらも、「信仰」という肝心要の部分がいまいち薄い日本の土着宗教という意味での面白さに惹かれる部分が多い。

最近の新興宗教を中心として、どうにも胡散臭く感じてしまうのは、そこにカネの匂いがぷんぷんするからだ。一部の団体上位者が独占的に金を集め、自らは飽満散財しているのに信徒には清貧を強いるのは如何なものか。
特定個人が生き神と崇め奉られてしまうようなファシズム的宗教もどうかと思う。
ただ、そのように圧倒的権力を持つ人物が居るからこそ、その宗教は幅を利かすわけなので、そういう意味ではそういう団体に宗教的な部分以外で興味が無いこともない。

しかしながら信仰の自由は尊重されなければならない。
私が幾ら嫌いであっても、その宗教を信じている人を否定することはない。やり方の誤りに対して言及することはあるが、信心そのものに対しての批判は一切行うつもりはない。
それは、個人の信仰に対する冒涜行為であるからだ。
いかなる人でも、自分の信ずるものを他人からあれやこれやと言及されることは好まないであろう。信じている人に間違っているとかおかしいなどと言うのは逆効果だ。

だから、たとえばある人がカルト系宗教団体に入っていたとしても、私との関係の中で、その人が私をその宗教に改宗させようという動きをしない限り、友好的な関係を結ぶことが出来るだろう。仮に宗教的議論になったとしても、その人との人間関係に破綻をきたすことはない。
だが往々にして、それら狂信的宗教者の人は、私が折伏されないと、私という人間に対する興味を失い、「死んだら黒い骨になりますよ」などという捨て台詞を残して去っていったりするのでまことに始末が悪いのである。

それと、多くの宗教人は基本的に自分の都合の悪いことには耳を貸さない。だから私と議論になると、自分の意見が悉く否定されてしまうもんだから、私の事が嫌いになってしまうのである。まあ、私の方も全て正論を述べているわけではなく、突っ込みどころも少なくないのだが、多くの場合、そういう議論にならず、大概の場合は脊髄反射的な口論になってしまうのである。それは宗教的に良くないことだと思うけどなあ。
矛盾を矛盾として受け入れ、自分の中で割り切っていくか、とことん突き詰めていくかという事も、宗教的には重要な行為ではないかと思うからだ。

多くの「信じるものは救われる」系宗教は、そのような矛盾に目を向けることを禁じている。何故なら「信じても救われない」かもしれないからだ。「信じても救われない」ならば信じないという短絡的な発想が生まれる危険性があり、信者を失いかねないから、疑問を持つことを禁じるのだ。そこが問題なのである。
本来宗教というのは「ギブ・アンド・テイク」の関係ではないのだ。多くの日本人が勘違いしているのは「救われるから信じる」という利己的な発想で宗教にしがみついているという点であり、もちろん、そのような布教活動を行っている宗教は多い。
多くの日本人にとっての宗教とは、自分の欲望を満足させるための手段としての宗教なのである。だからこそ、宗教心の薄い人でも「自分の利益になる事」は、やるのだ。
縁起を担いで新年のお参りに行く。その行き先が寺であろうが神社であろうが、あまり関係はない。浅草の浅草寺の境内で、かしわ手打ってお参りするような人が居るわけだ。
学校に入学できるようにと菅原道真に詣でる。クリスマスはプレゼントを貰うために祝う。
全て、自分の利益追求のための手段になっているのだ。
だが、真の信仰は自分の利益を無視したところから始まる。

そこが分かったとき、宗教的に次のステップに進めるのだが、一方でそれを悪用して私腹を肥やそうとする宗教家が後を絶たないのも事実なのである。
| 【TEXTSTYLE】 | 12:58 | comments(0)
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