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Sam & Dave
「私のロック史」では意図的に言及を避けていたのがソウル系のサウンド。
80年代初頭、ディスコブームの頃に結構聴いていた。
昨日のアイク&ティナもそうだが、サム&デイヴもお気に入りだった。

当時、まだ動画を日常的に見られる環境はなく、おそらくベストヒットUSAのタイムマシーンのコーナーか何かで流れたサム&デイヴの映像を見た時に電気が走ったのだった。
真似できないカッコ良さだったよなあ。当時流行った映画「ブルースブラザース」の影響も大きかったように思う。

バンドでもサム&デイヴをやりたかったんだが、残念ながら私の周囲では、デイヴもエルウッドも見つからなかったのであった。


| 【音楽】 | 11:41 | comments(0)
Ike&Tina Turner
なかなか日記が書けないので、しばらく動画貼ってごまかします。

まずは、俺のソウルシスター、ティナ姐さん!!かっこいいー!!

イントロのアイケッツを加えてのダンスから痺れます。1971年だぜ!俺小4だぜ!!

| 【音楽】 | 09:59 | comments(2)
わたしのロック史(終) ライブ撮影
デジタル一眼レフカメラの登場は、ライブ撮影に画期的な変化をもたらしてくれました。
それまで、ライブの撮影というのは非常に難しいものでした。
まず、暗いのでシャッタースピードが遅くなり、ブレやすくなるので歩留りが悪くなります。次に、フィルムカメラでは撮影結果がすぐに確認出来なかったので、露出補正などは全て機械まかせか、勘に頼るしかありませんでした。
さらに、フィルムは1本36枚という制限があり、長時間のライブでは大量のフィルムを消費するほか、フィルム交換の際には撮影が出来なくなるという様々なデメリットがあったのです。

これらを払拭したのが、デジタルカメラでした。

デジタルカメラは銀塩カメラよりも高感度で撮影することができ、また、撮影結果をすぐに確認することが出来るので、撮影の難しいライブに、もってこいなのです。
フィルム交換の手間もなくなり、万一メディアが一杯になっても、その交換は瞬時に行えるので、ロスが随分減りました。

当時最新鋭の、フルサイズ・デジタル一眼レフ、キヤノンEOS5Dを購入したのが、ライブ撮影をしてみようと思うキッカケです。

最初に撮影したのは、四ツ谷のアウトブレイクだったかな?
そこで、内核の波(ないかくのわ)というバンドを知ります。

ハイテクニックのインストゥルメンタルバンドで、プログレっぽい要素もあり、強引にジャンル分けするなら、ドリームシアターなどに通じるものがありました。
このバンドが気に入って、しばらく色々なバンドを撮影するようになります。

それから内核の波、ダムダム団、日比谷カタン、月禿の騎士などを撮影してきました。
しかし、内核の波は難しかったなあ。ステージ背面にスクリーンを置き、客席後方から演奏中にプロジェクターで画像を流すんですが、そのために露出とピント合わせが地獄のように難しくて。随分鍛えられました。

その様子は、旧写真ブログ「でじ式ねじ式」のほうにアップしてありますので、興味のある方はご覧ください。

http://nejiyama.exblog.jp/i12/

また、内核とダムダム団のステージ写真を使って、写真展も開催させて頂きました。

ところが、2008年に内核の波10周年記念ライブを撮影した後、残念ながら内核の波は解散してしまいます。その後、ダムダム団も活動休止となってしまい、ここで一旦ライブ撮影から退きます。

数年後、内核の波でキーボード担当だった高木大地君の結婚式二次会に呼ばれ、その時の写真を撮ったのが縁で、再び新生金属恵比須のライブ撮影をするようになりました。

それ以後、専属カメラマンとして金属恵比須の写真を撮っています。2012年には、金属恵比須のライブ写真展を再び開催しました。

http://nejiyama.exblog.jp/18267936/

今でもたまに、他のバンドのかたから撮影依頼など頂き、有難い限りです。忙しいのでなかなかご希望に添えない場合が多いのですが、都内で土日撮影ならば、何とかなると思いますので、この程度の写真で良ければご連絡下さい。

さて、その、金属恵比須ですが、遂に2月11日から全国でCDが発売になります!
Amazonでも購入出来るようになりました。

ハリガネムシ
金属恵比須
B00SB9MQRC


自分の友人のバンドのCDがAmazonで買えるというのは格別の喜びですね。

***

さて、予想どおりだらだらと書き連ねてきた回顧日記も、本日で終了です。

現在では、もっぱらCDをi-podにダウンロードして、行き返りの通勤電車の中で聴くというスタイルが中心で、以前よりは再び身近にロックと付き合うようになった反面、学生時代のような新鮮な出会いや、強烈な影響を受けるようなことは無くなってしまいました。

もう一度ギターをやってみたいとか、バンド活動をやりたい気持ちもありますが、色々手一杯なので難しいですね。

ただ、これからもロックは聴いていくつもりです。
新たな出会いと感動を期待したいです。

長々と、冗長的な思い出話にお付き合い頂きありがとうございました。

<おわり>
| 【音楽】 | 09:21 | comments(6)
わたしのロック史(16) インターネット時代
インターネットが普及し、ロックとの付き合い方が変わるようになりました。

見知らぬ人と掲示板等で音楽談義が出来るというのは実に面白いことでした。
インターネットを始めた頃は、F1やプロレスなんかも好きで、そういったサイトにも顔を出していましたが、平行して音楽サイトも見に行くようになります。

スティーブ・ハケットが来日したのは、丁度その頃でした。

ソロ公演でありながら、元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルド、ジョン・ウエットンを加え、ドラムはジェネシスのサポートをやっていたチェスター・トンプソン、キーボードもプログレ系セッションプレーヤーのジュリアン・コルベックというラインナップ。

ジェネシスのWatcher Of The Skyで静かに始まったコンサートでした。ライティングが見事で、ジョン・ウエットンの歌も意外とジェネシスの曲に合っていて、序盤は非常に良いコンサートだったのですが、何と!Court Of The Crimson King と I Talk To The Wind を演奏しました。イアン・マクドナルドに敬意を表しての事だと思いますが、さあ、そうなるとスティーブ・ハケットという人は影が薄くなってしまいます。
特にギターアンサンブルの弾き語りでアンプラグド風にエイジアのHeat Of The Momentをやったのは、正直言ってやり過ぎでした。スティーブ・ハケットのコンサートだったのに、ジョン・ウエットンが目立つ目立つ(笑)

人が良すぎるのかなあ、美味しいところを半分以上、ジョン・ウエットンに持っていかれてしまったコンサートでした。

この公演の模様を某掲示板で語り合ったのが、インターネットでの最初の交流という事になります。賛否両論でしたが、全体的には好印象だったと思います。
ただ、あんまり深入りすることは無かったですね。独身であれば、もう少しアクティブに動いていたかもしれませんが、結婚することになって、少し活動の幅を狭めるようになっていました。音楽の人は色々ややこしいし。特にプログレの人は(笑)

インターネットと前後して、NIFTY-Serveでの交流も始めましたが、音楽関係よりもコレクション関係の人脈が出来ました。今でもお付き合いさせて貰っている数名のかたは、最も古いネット仲間という事になります。

結婚して、妻に付き合って、彼女の好きなバンドのライブステージも見るようになりました。

杉山清貴をロックと言って良いのかどうか分りませんが、妻と結婚していなかったら絶対に見てないでしょうねえ。観客は、ほぼ女性。付き合いと思われる男性がチラホラ見えますが、そういうライブは高校時代のジャパン以来です。居心地悪かったなあ。しかも一曲目から総立ち!驚きました!!
杉山清貴は、あまり聞いたことが無かったので、いちいち新鮮な驚きがあり、色々な意味で面白いライブでした。

21世紀に入って、イエス、エリック・クラプトン、キッス、エイジアなどを見に行きますが、その内容については以前、IMPRESSIONSというブログのほうで書いたので割愛します。

そうだ、1回だけ友人のライブを見に行ったときに、飛び入り参加でディープパープルのハイウェイスターをやりましたっけ。バンドでディープパープルを歌ったのは大学以来だったかな?

その頃から写真を再開し、カメラ関係の仲間も増えてきていました。
私が好きだったのは、いわゆるストリートスナップだったのですが、肖像権問題などで少しややこしくなってしまい、街中で自由に写真を撮るのが難しくなってきました。特に子供たちを撮影するのはご法度になってしまいました。

そうなると、写真が面白くありません。何か合法的に人物を撮影し、インターネットで発表出来る場は無いかと考えていた時に、思いついたのがライブ撮影でした。

<つづく>
| 【音楽】 | 11:36 | comments(0)
わたしのロック史(15) アンプラグドとレーザーディスク
イカ天ブームがあっという間に去り、それと同時に私の音楽熱も再び急速に冷めていきます。当時熱中していたF1つながりで、スクエアやマイケル・シェンカー、ロビー・ザンダーなんかを聴いたりしたくらい。そのほかも、新しいムーブメントには全く興味がなく、古い音楽ばかり聴いていました。

そんな時、MTVで始まったのがアンプラグド・ライブでした。

電気楽器を使わず、全てアコースティックな楽器のみで演奏するスタイルの番組です。

エリック・クラプトンのライヴが大人気となり、日本でも人気となります。私もこのステージの放送をレーザーディスクで買い、久々にギターをひっぱり出して、必死でコピーしました。

ニルヴァーナ、ジミー・ペイジ&ロバート・プラント、ビョーク、キッスなどがお気に入りでした。今でもニルヴァーナ、キッスやクラプトンのアンプラグドライブの演奏は聴いています。



その頃、組合関係の仕事をしていたこともあって、組合主催の会社のクリスマス会で3年ほど連続でバンド演奏をすることになり、機材を用意するのが楽なので、毎年アンプラグド風のミニライブをやりました。私と、もう一人がエレアコでギターを弾き、パーカッションとキーボードというベースレスの4人編成。
フィル・コリンズとかクラプトンの有名どころの曲なんかを中心に演奏しましたが、そのほかはクリスマスソングだったり、当時流行の歌謡曲だったり。カラオケタイムには、歌自慢の何名かが我々の伴奏をバックに自慢の喉を披露するという感じ。
2年目にやった、アンプラグドスタイルのYMOのライディーン(正確には空手バカボンバージョン。♪テクノー、テクノライディーンーというボーカルが入るw)が大うけでした。私はどうもそういうコメディ調の曲を演奏するときしかウケないみたい。何でだ?

バブルが崩壊して、クリスマス会も縮小になり、やがて私は管理職になって組合からは抜けてしまったので、そのタイミングで会社のバンドは解散になりました。メンバーもばらばらになってしまいましたが、機会があったらまた何かやりたいですね。

この頃、レーザーディスクという媒体が登場しました。
大きさはLPレコードサイズで、アナログではありましたが、ビデオテープのように劣化しない(実はそんなことは無いのですが)という事で、プレーヤーを買い、レーザーディスクを買いまくっていました。

大半が、昔の映画や特撮番組中心でしたが、音楽関係のものも幾つか買っています。アンプラグドで映像化されたもののほか、「レッド・ツェッペリン狂熱のライブ」とか、映画化されたものなども買いました。

しかし、このレーザーディスクも、数年後に登場するDVDに取って代わられます。

レーザーディスクはレンタルが禁止されており、レンタルビデオの恩恵に与れなかったこと、録画できないので、家庭普及に結びつかなかったこと、アニメ番組のLD化で供給が追い付かなくなり、発売即廃盤みたいな状況が続き、当初からレンタルを開始していたDVDに取って代わられ、2000年ごろにはLDよりもDVDのほうが主流となっていきました。

わずか10年弱で終焉というのは、あまりにも酷い話で、我が家には既に数百枚のコレクションが溜まっていました。
大半がボックスでしたが、インターネットの普及後に始まったヤフーオークションのおかげで、粗大ゴミになる前に処分出来たのは随分助かりました。
LDは、2007年に最後の生産ラインが停止し、完全に命を絶たれた格好となっています。この時のトラウマがあるので、なかなかブルーレイには手が出ません。

余談が長くなりすぎたので、音楽の話に戻りましょう。

90年代の新しいロックには、ほとんど興味がありませんでした。

聴いたのはニルヴァーナくらい。レッチリとか、ラップ、ヒップホップ系には全く興味がありません。これは今でもそうです。否定ではなく、合わないだけなのでお間違いなく。

92年には8人イエスが来日したので、これは見に行きました。ビル・ブラッフォードに期待しましたが、正直言ってイマイチ。8人である必要は全くなく、人数が多すぎて焦点がぼやけてしまった感じがしました。その後2004年に危機時代のメンバーで来日したライブは非常に良かったので、今でも8人イエスは私の中では評価低いです。
この年は、エイジアとかEL&P、ロバート・フリップのソロプロジェクトも来たんですが、イエスがイマイチだったので。いずれもスルーしています。

昔のバンドの音が好きでしたけれど、既に峠を越えた彼らの今を、お金を払って見る気にはなれなくなっていました。

翌年夏、そんなに期待することも無く見に行ったドリームシアターのライブが、意外と良い出来で、それからしばらく新しいプログレムーブメントのバンドを聴くようになります。



新世代のプログレッシブロックは、超絶なテクニックを駆使したバンドが多くなっていました。ドリームシアターは聴けましたが、シンフォニーXとかクイーンズライクは、自分的にはイマイチでした。メタル寄りの音とルックスには拒否反応を示すようです。つくづく、メタル系とは相性が悪いですね。ジュリアンの呪いかもしれない(笑)

<つづく>

 
| 【音楽】 | 18:42 | comments(0)
わたしのロック史(14) イカ天ブームと謎の「ザ・ベスト」
80年代の終わり、転職してすぐ位の事です。
東京ドームが出来、鈴鹿でF1が見られるようになり、興味はもっぱら野球とモータースポーツになっていました。
スキーブームに乗って、車は四駆にシフトします。三菱パジェロのロングボディを買い、スキーやキャンプに大活躍しました。以後、現在まで車は四輪駆動車しか買っていません。

そんなある日、テレビで変な番組が始まりました。
「イカすバンド天国」という番組です。

SETの三宅裕司と相原勇が司会で、アマチュアバンドが登場して審査し、勝ち抜いていくという番組です。昔のお笑いスター誕生みたいな構成ですね。(そっちも知らないか)先日亡くなったオペラ歌手の中島啓江さんなどが審査員を務めていました。

この番組が大ヒットし、アマチュアバンドブームが再燃します。

この番組からは、フライングキッズ、ジッタリン・ジン、BEGIN、たま、マサ子さん、マルコシアス・バンプ、人間椅子、リトル・クリーチャーズ、ブランキー・ジェット・シティなどが排出されます。

白眉は人間椅子が出た回で、この時の衝撃は今でも忘れません。
そこから25年以上に渡る人間椅子との付き合いが始まるわけです。

人間椅子が出た回は不思議な回で、かなりの実力者ぞろいの中、ジッタリン・ジンがキングになるのですが、その直後にメジャーデビューしてしまい、ヤラセ臭ぷんぷんだったのを覚えています。

マルコシアス・バンプと、たまのキング決戦も、鮮明に記憶に残っています。マルコシが「バラが好き」たまが「まちあわせ」という究極の相反する音楽での対決。栄冠はたまに輝きましたが、即座にマルコシの敗者復活が決定したのでした。

この番組がきっかけで、再び楽器をやってみようと思うようになり、グレコのES-335タイプと、ヤマハのエレアコを買いました。

しかし、丁度転職したばかりで、仕事を覚えるのが忙しく、本格的にバンドを組んで活動するまでには至りませんでした。会社のクリスマスパーティーの時に、有志でバンドを組み、クリスマスソングを演奏したくらいです。

イカ天ブームは、たまの登場で最高潮に達し、NHKの紅白歌合戦にも出場を果たしました。
原宿にイカ天ショップなるお店が開店し、そこでしか売っていないレアなCDを買いました。人間椅子、BEGIN、マサ子さん、THE WEEDの4枚です。全部で15種類くらいあり、VA盤(ライブ盤?)もあったのですが、それは買いませんでした。

90年に入り、突然スーパーバンドの来日公演のニュースが入ってきます。

ドゥービー・ブラザースのジェフ・バクスター
イーグルスのジョー・ウォルシュ
EL&Pのキース・エマーソン(?!)
ザ・フーのジョン・エントウィッスル(!!)
ドラマーにはフーのサポートなどもやっていた、サイモン・フィリップス
ボーカルはテリー・リードの予定だったのですが、結局知らない人になっていました。

それが、「ザ・ベスト」という、何だかよく分からない夢のバンドでした。
少なくとも動いているジョン・エントウィッスルが見たかったので、このコンサートに足を運びます。横浜アリーナで、平日だったので、会社を休んで行きました(笑)

これ、何だったんだろう?アメリカウエストコースト系と、英国プログレ&モッズという組み合わせがどうしても理解できない。時々、夢だったんじゃないのとか思うくらいです。演奏も、このバンドのオリジナル曲は無くて、それぞれのバンドのヒット曲を延々とやっていました。バブル時代、日本へのサービスだったんですかねえ?単なる金稼ぎだったのかも??

このメンバーの中では、何といってもザ・フーのジョン・エントウィッスルでしょう。
ザ・フーは日本ではあまり人気がなく、解散後もライブ・エイドなんかでちょこちょこ演奏はしていたものの、決して来日なんてしないと思っていたので、余計に驚きました。



キース・エマーソンの「庶民のファンファーレ」「America」も良かったです。逆さ奏法や、ピアノの上でナイフを突き刺すパフォーマンスも健在でした。

ニューグループという謳い文句でしたが、実際はジャムセッションですね。

まだスキーブームは続いていて、最高で年間40日くらい行っていましたね。暖冬になる前だったので、11月くらいから滑れたのです。春は5月のゴールデンウィーク前に滑ったこともありました。

スキー場まで行く時の音楽は、それまで歌謡曲だけだったのが、次第にロックを入れるようになり、さらにはアニメや特撮の主題歌集(笑)が入ったり、日本のインディーズが入ったりして、同乗者を洗脳して行くようになります。(苦笑)

意外にも人間椅子は評判が良かったですね。
あぶらだこはダメだったなあ。(そりゃそうだ)

<つづく>
| 【音楽】 | 13:07 | comments(0)
わたしのロック史(13) CDへの移行
それから就職し、ますます音楽は聴くだけになっていきました。

80年代後半、映画「私をスキーに連れてって」のブームが火付け役となって、若者の間でスキーが大流行します。週末の関越道は大渋滞。会社を終わってから車で出発し、スキー場に着いたのは翌日の昼、1本だけ滑って帰るなんていう事もざらにありました。
まあ、男女入り混じって狭いクルマの中で何時間も渋滞にハマるというのは、若い時じゃないと出来ませんねえ。

この頃は、ほとんど歌謡曲しか聴いていません。

大学時代のサークルの先輩にアイドル好きがいて、その人の影響でアイドルのレコードも聴くようになっていたのですが、私は根がコレクターだったので、アイドルのEPレコード収集という、ちょっと間違った方向に行きます。

単にEPを集めるだけで、下手をすると聴きもしませんでした。当然、アイドルのコンサートを見に行く気は全くなく、自分でも変な趣味だったと思います。アイドルコンサートにおける、親衛隊みたいなものとは徹底的に相性が悪いのです。ダミ声張り上げて「○○ちゃーん!」なんて叫ぶのは心底カッコ悪いと思っていました。(そういうのが好きな人ごめんなさい)

新作は普通のレコード屋で買いますが、ちょっと古いものは中古レコード屋で買います。数寄屋橋のハンターなどは週1くらいで通っていたかな?ただ、あそこはEPジャケットをホチキス留めしていたのが萎えましたね。安かったから我慢していましたけれど。

しかし、それも斉藤由貴とか荻野目洋子くらいまでで、おニャン子クラブには全く興味が示せず、CDへの移行も相まって、EPコレクションは辞めてしまいます。

この時代、ロック系で唯一聴いていたのは、ブルーハーツです。かなり好きでした。ギターがあったらコピーしていたでしょうねえ。

洋楽のライブには、滅多に行かなくなりました。ブライアン・フェリーのソロ公演くらいかな?スーツにネクタイと、サラリーマンみたいな服装でしたが、かっちょええオジサンで、自分もああなりたいと思ったもんですが。

***

今まで音楽は、レコードを買うか、FM放送をエアチェックしてカセットテープに録音するかのどちらかでしたが、レコードに代わってCDが登場していました。

最初CDを見た時に、あまりにも小さいので、こんなのはダメだと思いました。
音質も良くないという噂があったので、しばらくCDには手を出しませんでした。
特に、当時買っていたシングルレコードに相対するものとして、8センチCDというものが売られていましたが、あまりにも小さく、コレクションにも不向きなので、手を出しづらかったという事もあります。

しかし、世の中は段々とCDが主流になっていき、私もCDプレーヤーを導入することを決めました。
ソニーのCDP-333ESDという機種で、当時の値段で9万円くらいしたと思います。
この頃、ステレオはマランツのPM-84というアンプを使っていました。レコードプレーヤーは最初に買ったテクニクスのものが未だ現役で、カセットデッキはTEACの中級機(型番忘れた)を使っていました。スピーカーはちいさいものを自作していました。

私の気質からいって、オーディオにのめりこんでもおかしくはないのですが、何故かそちらの方向にはハマりませんでしたねえ。

CDへの移行期に、タモリ倶楽部の廃盤アワーというコーナーが人気になって、中古EPが異常な値段になった時がありました。そこで有名になった貴重盤は、だいたい持っていたので、売却してかなり儲かったのは嬉しかったです。でも、それも大半はCDへの買い替え資金になっただけでしたが。

問題は1000枚近くになってしまったLPレコードの処分です。
CD化されていないものがほとんどだったので、しばらくそのままにしていましたが、CDが出るたびに買い替え、レコードはその都度処分していました。

最終的に、2002年ごろに実家が引っ越しすることになり、その時点でLPレコードは600枚くらい残っていましたが、全て業者に売り渡してしまいました。ちょっとレアなものも多かったんですけどね。買ってから1回しか針を落とさなかったものも多かったですし、まあ仕方ないです。

そんなわけで、ほとんどロック的なものを聴かなくなり、平凡な社会人生活を送っていましたが、諸般の事情で転職を決意することになり、さらに忙しくなってしまって、音楽そのものを聴かない日々が続くようになりました。

<つづく>
| 【音楽】 | 08:44 | comments(2)
わたしのロック史(12) マイ・フェイバリット・テープ
高校時代からギターを始めた最大の理由は、モテたいということでした(笑)

当時の高校生は、音楽やってるとモテるに違いないという誤った幻想を抱いていたんですね。でも、実際に音楽やってても、ちっともモテませんでした。

大学時代に同級生とやったパンクバンドでは、ボーカルをしていたヤツがイケメンで、彼だけがモテました。楽器をやってる我々は全然モテないのに、何にも出来なくて歌しか歌えない(しかも、そんなに上手いわけでもない)男だけがモテたのです。

たまたま学園祭を見に来ていた女子高校生たちに声をかけて合コンをしたのですが、一番かわいい子をそいつが掻っ攫っていき、理不尽な思いをしたものです。

音楽がモテる道具だという幻想は無くなり、大学生にとってのモテるための武器は、テニス、スキー、車になっていました。

特に車。良いクルマに乗れば女が寄ってくるというわけです。今では信じられないかもしれませんが、確かにカッコイイ車に乗りたいという女子は多かったですね。

学生時代、バイトして何台か車を買いましたが、ボロボロの超安いものばかりで、とても彼女を横に乗せられるような車は買えませんでした。助手席無いのもあったし(苦笑)
そういう時は家の車を持ち出したりしましたね。マツダのカペラという普通のセダンですが、ロールバーの入ったジェミニより遥かにマシでしょう。

この時代、車で音楽を聴く時にはカセットテープが主流でした。カセットテープに、好きな音楽をダビングして、マイ・フェイバリットテープを作るのです。外側のケースには、インレタを使って曲名やバンド名を書き込み、お洒落なデザインにしたりしました。

そんなのを作って聴いたり、彼女にプレゼントしたりするんです。そういう時の選曲は、耳馴染みのよい産業ロックとかベストヒットです。間違ってもブラック・サバスやキング・クリムゾンではありません。

かつてのプログレバンドの人たちが、産業ロックに身をゆだねて復活してきたのも、その頃です。エイジアの登場はセンセーショナルでしたねえ。ギター売らなきゃ良かったと後悔しましたが、時既に遅し。

エイジアは、83年の暮れに来日するのですが、直前でまさかのジョン・ウエットン解雇。代わりにグレッグ・レイクが参加し、半分EL&Pになってしまいます。
日本公演は、米国時間に合わせて生中継された関係で、昼間の2時くらいに放送しました。水曜日だったかな?TVKの中継だったので、生で放送を見ることが出来た人は、ごく限られた人だけだったと思います。
私も、ライブに行く気にはなれませんでしたが、この放送は学校を休んで見ていました。急ごしらえのレイクがイマイチなのは仕方ないことでしたが、その分ハウ師匠が頑張っていた感じはしました。特にジェフ・タウンズの背後に立ち並ぶキーボード群が印象的でしたねえ。



両脇のタレ幕がダサすぎる。

この年、セックス・ピストルズを脱退していたジョニー・ロットンが、本名のジョン・ライドンに戻って結成していたパブリック・イメージ・リミテッドが来日しています。
行く気まんまんだったのですが、来日直前にギターのキース・レヴィンが脱退してしまい、すっかり行く気がなくなりました。見に行った友人の話だと、半分くらいパンクファッションの客が居て、ピストルズ時代の曲をやれと煩かったようで、アナーキー・イン・ザ・UKを演奏したときは大盛り上がりだったとか。

その後ライブアルバムが出たので買いましたが、何となく今ひとつの印象は拭えず、行かなくて正解だったかも。

そうだ、バウハウスの来日公演に行きました。
蛍光塗料を塗った衣装で怪しく光るピーター・マーフィーが印象的だったんですが、昼公演だったので、終わったあと、外に出た時にまだ明るくて、そのギャップが妙に印象深く残っています。

その当時、日本のバンドでは、サザン・オールスターズを筆頭にして、湘南サウンドみたいなブームを作っていきました。フュージョン系も流行っていましたね。スクエアとかカシオペアが出てきたのはこの頃だったかな?

レベッカ、聖飢魔II、BOOWY、など、日本のロックも段々とレベルが上がってきていて、そういう曲も好むようになっていました。聖飢魔IIは、メジャーデビュー前の、まだキッスみたいなメイクをする前の頃から聴いていました。ロフトなどのライブハウスにも行くようになりました。日本のインディーズシーンを知ったのはこの頃で、そこからインディーズ系にもハマります。

もう演奏することは殆ど考えず、聴くほうだけになっていました。

<つづく>
| 【音楽】 | 12:28 | comments(0)
わたしのロック史(11) ベストヒットUSA
ここまで書いてきて、だんだんと記憶があやふやになってきています。中学、高校の記憶はバッチリなのに大学以降になるとあやふやですねえ。酒を飲み始めた影響でしょうか。
だんだん年を取るとともに、記憶がいい加減になっていますので、多少の勘違いはあるかもしれません。
一応、来日公演などは裏を取りつつ確認していますが、記憶が入り混じっているものもあります。事実誤認があればご容赦願います。

***

学園祭でバンドをやったときの縁で、バンド仲間は格段に増えました。
私は高音のボーカルが出来たので、当時流行していた産業ロック系の音をやっていたバンドにゲストボーカルで幾つか参加させて貰いました。ウチの大学では、ヘビメタ中心のバンドが多かったのですが、同時に産業ロック系のバンドも増えてきていました。

TOTOやジャーニーが多かったですねえ。ボストンのコピーをやったとき、どうしてもサビの最高音が出なくて、キーボードで被せてごまかそうかという事になったのですが、ある日突然出るようになりました。
これには驚きましたね。声って鍛えると出るようになるんだなと思いました。

そのうち、バンドを組む仲間が出来て、U2とかポリス、XTC、エコー&ザ・バニーメンなどの英国系ニューウェイブをやっていました。私の担当はボーカルがメインで、サイドギターと曲によってはベースやキーボードも担当しました。U2のNew Years Day では、イントロにピアノの音が流れるんですが、そこだけ弾いたりしました。(本家U2ではエッジが弾いていましたが、ウチのギタリストは全然その気なし)



みんな若い(笑)

ギターは、ショートスケールの弾きやすいものが欲しかったので、フェンダーのムスタングを買います。弾きやすかったのですが、ショートスケールの宿命で、サスティンが利かず、アームを使うと確実にチューニングがずれるので、アームは外してサイドギター専用にしていました。

相変わらずウケは今ひとつでしたが、U2のボノとは声質がとても似ていて、歌も良く似せて歌えたので、自分では一番の出来だったと思います。丁度ライブアルバムが出た頃だったので、ライブバージョンの完コピをやったりしました。U2は、今でもたまにカラオケに行くと歌います(笑)

この頃はMTV全盛期で、土曜深夜に放送する、小林克也のDJによるベストヒットUSAを見まくっていました。土曜深夜といえば、フジテレビでオールナイトフジという番組が始まり、ベストヒットUSAを見てからオールナイトフジを見るっていうのが一般大学生の王道みたいになっていました。ま、我々はだいたい徹夜麻雀やりながらでしたけれど。

ベストヒットUSAのビデオクリップは随分見ましたねえ。マイケル・ジャクソンを筆頭に、この頃の音楽は殆ど映像つきで覚えています。タイムマシーンというコーナーで、昔のヒット曲の映像を流してくれるのが好きでした。日本の歌謡曲より洋楽のほうがヒットしていた時代でした。



これね。俺たちひょうきん族で、ウガンダが真似たのが馬鹿ウケだったなあ。
アル・ヤンコビックなんてのも居ましたね。

70年代でも、プロモーション映像やライブ映像というのは少なからずあったのですが、それらを見る機会は大変少なく、家庭用ビデオも普及していなかったので、音は録音出来ても映像は保存出来ませんでした。だから、どうやって演奏しているんだろう?と不思議に思うことが多々ありました。

YESのコピーをやっていたとき、ギターの子がシベリアン・カートゥルのサビのボトルネック奏法の音が出せないと、随分苦心していたんですが、後年、ビデオで見た時に「何だ!スチールギターじゃん!!」と驚いたのを良く覚えています。まさかライブでもスチールギターに弾き替えてるなんて思いもしませんでした。今ではYouTubeなどですぐにライブ映像が見られるので、そんな勘違いもなくなりましたね。



この画像の3:30くらいから、スチールギターを弾いている映像が出てきます。

洋楽は沢山聞くようになりましたが、マイナーなバンドは殆ど聴かなくなってしまいました。ヒット曲というのは、一時的に流行にはなりますが、すぐに飽きられてしまいます。洋楽のブームは83年から84年くらいが最高潮だったでしょうか?

その頃には既に、楽器をやってもモテないという事に気づいていましたので(笑)、興味の対象は、車とスキーに移行していきます。

スキーを買うために、楽器を売り、ライブ活動からは足を洗うことになりました。結局、私のライブ活動はコピーどまりで、オリジナルを作ったりすることなどは考えもしませんでした。文章で書くと、随分立派な活動をしていたように見えてしまうんですが、まあ、その程度のものです。

<つづく>
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わたしのロック史(10) ジュリアンと呼んで頂戴
浪人時代に書き忘れていたことがありますので、追加しておきます。

ジョン・ボーナムの死とレッド・ツェッペリンの解散です。ショックでしたねえ。

マーク・ボランやキース・ムーンの死は、洋楽を聴きだしてすぐだったので、そんなに入れ込んでいたわけでもないし、レイナード・スキナードの飛行機事故もショッキングでしたが、やはり大好きというわけでもありませんでしたので、ジョンの死はまさに青天の霹靂、大ショックでした。

その後、レコード会社との契約の兼ね合いで、未発表テイクを集めた「CODA(最終楽章)」というアルバムが発売されるのですが、そういうのが何となく嫌で、レッド・ツェッペリンのアルバムでは、これだけ買っていません。

ジョン・レノンの死には、あまり感じるものはありませんでした。私はビートルズほぼ無体験世代なので。ビートルズの影響力はあったと思いますが、上手いとは思わなかったし、ジョン・レノンなんてカッコ悪いただのおじさんにしか見えませんでしたからねえ。(ビートルズファンのかた、ごめんなさい)

平和とか何とか、そういうメッセージソングが嫌いで、それもあってジョン・レノンは敬遠していました。それは今でもそうで、政治的な歌やメッセージソングみたいなものは嫌いです。一部のパンクロックに見られたアナーキズムは、いわゆる政治的なものとは感じていません。あれは破壊衝動ですね。それは肯定できます。

***

大学生になったとき、一番の興味は写真でした。
元々カメラが好きで、高校時代は鉄道写真などを中心に撮影していたんですが、大学生になったので、本格的にカメラをやろうと思ったのです。

ところが、ウチの大学の写真部は、学生運動崩れの巣窟でした。80年代になっていましたが、全学連くずれの連中がまだ大学で燻っていたんですね。私は学生運動が大嫌いだったので、そこは早々に辞めてしまい、軽音楽部に顔を出すことにしました。

軽音楽部に入ると、髪の毛が長いのに煙草を吸っているのでヤニ臭く、無精ひげを生やした汚い感じの人が居ました。スパンコールの付いた合皮のジャンパーを着ていて、見るからに頭の悪そうなヘビメタ野郎でした。

その人が部長だったのかどうか覚えていませんが、開口一番、

「僕のことはジュリアンと呼んで頂戴」

と言われました。

ドン引き。

ああ、わたしのドン引きロック人生。

そのほかにもヘビメタ系の人が多くて、あとはパンク系が居た程度。その頃流行っていたフュージョン系の人とか、プログレっぽい人は皆無でしたね。
そんなわけだったので、あまり熱心に活動はしませんでした。

そのうち、高校時代に鉄道模型クラブで一緒だった先輩に誘われて、鉄道のサークルに顔を出すようになり、写真撮ったり旅行に行ったりするのが楽しくなって、音楽的なものにはあまり関わっていませんでした。

大学時代はとにかくバイトに明け暮れましたね。話が長くなるので割愛しますが、バイトしてお金を貯めて、カメラを買ったり、旅行に行ったりしていました。今より金持ちだったんじゃないかなと思います。
通学できる距離でしたが、家を出たかったので下宿生活をしていました。始めは生活費の足しにしようと思っていたバイト代ですが、結局はカメラや旅行につぎ込んでしまったので、音楽に回すお金は夏休みくらいまで無かったのです。テレビすら買っていませんでした。

夏休みのバイト代で漸くテレビを買い、久々に音楽関係の番組を見ることが出来るようになりました。世の中はMTVブームで、テレビ神奈川のミュージックトマトという番組が毎日MTVを放送していて、これを見るのが楽しみでした。夕方5時代だったと思います。まだビデオデッキなど普及していない時代だったので、この時間はバイトを外していました。

世間ではYMOの大ブーム。テクノ系のバンドが出てきて、日本のバンドも有名になって来ました。ヒカシューやプラスチックス、P-MODELは良く聴きましたが、メインは洋楽。それも耳なじみの良い音ばかりでしたねえ。ジャーニーのエスケイプがブームになり、アマチュアバンドの半分くらいは、ジャーニーをやっていたような気がします。

何がキッカケだったか忘れてしまいましたが、学園祭のシーズンになって、クラスの友人たちとバンドをやることになりました。これが久々のバンド活動となります。

友人たちはパンク好きで、初心者もいたので、セックス・ピストルズなんかの曲をやりました。ギターは3人もいたので、わたしがベースを担当することになります。パンク演るのにAriaProIIのベースでは格好付きませんけど仕方ない。

初心者バンドだったので、演奏については書くべき事はありません。

当時のセンセーショナルな事件としては、キング・クリムゾンの復活があります。ギターにトーキング・ヘッズのエイドリアン・ブリューを迎え、トニー・レビン、ビル・ブラッフォードという布陣。ポリリズムと反復を徹底的に使った音の上に流れるトリッキーなブリューのギターに痺れました。

来日公演に行き、エイドリアン・ブリューが「あぁかあ!」と言って旧クリムゾン時代のレッドを演奏し始めた時には背筋がぞくぞくしましたね。まさか生でレッドが聴ける日が来るとは思ってもいませんでしたから。

<つづく>
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