クルクルちゃん TOPに戻る

Since 1997.1.1
CONTENTS

雀鉄BLOG
 軽便鉄道模型製作記


大盛飯
 金属恵比須御用達写真サイト


出張めし
 サラリーマンの昼飯日記

INPRESSIONS
 随時更新 

パチモン怪獣図鑑
 更新停止中 

大洋ホエールズ
 更新停止中 

MY BOOKMARKS
 2010/07/06 

CALENDER
S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< January 2019 >>
ARCHIVES
CATEGORIES
RECENT COMMENT
イチオシ
qrcode
TEXT STYLE
「野火」を見た。
健康診断が予定より大幅に早く終わってしまった。
このまま会社に帰るのも業腹なので、ちょいとサボって行こうと思って、ハタと思いついた。
そうだ、映画、見よう。

とても気になっていながら、予定が合わなくて見られなかった映画、「野火」を見る。

で、以下感想。ネタバレを多数含むので未見のかたは要注意。

***

大岡昇平の原作を映画化したものである。戦争映画っぽいが、これは戦争映画ではない。
勿論、時代は太平洋戦争の南方で、日本軍兵士の事を描いているんだから、戦争映画の範疇ではある。
だが、いわゆるドンパチは殆ど出てこない。というよりも、敵軍と「交戦する」シーンが全く無い。
敗走し、逃げる途中で米軍に見つかり機銃掃射で全滅というシーンはあるが、その時も日本軍は「戦って」いない。ただ只管、なぶり殺されているだけだ。
それは戦争とは言わない。ただの鏖(みなごろし)だ。

正直、「戦争映画」というものに対しては人一倍、辛口の批評をすることにしている。それは、ミリタリーファンとしての矜持でもある。「野火」の映画化と聞いて、巷の良い評判を幾つか聞いたけれども、正直言って、それほどは期待していなかった。まあ、いつの場合でも、他人の大絶賛映画に対しては斜に構えてしまいがちな天邪鬼である。しかも戦争映画と来ては、簡単に高評価などできない。最近よくある国産の戦争美化映画みたいなノリがちょっとでも入っていたら、こき下ろすつもりであった。

が、実際見て、その思いを大きく改めざるを得なかった。

これは戦争映画ではない。
少しでも、戦争とは云々、生きるとは云々などと綺麗ごとが語られていたら、そこで終わりの映画であった。だが、そんなことは1ミリも語られていなかった。戦局の説明や、この戦地がどこであるかの説明すら省かれた。事前知識なしで、これがフィリピンであると理解できた人は殆ど居ないだろう。
そこが、この映画の特筆すべき点の一つである。
もう一度言う。これは戦争映画ではない。

では何なのか。陳腐な表現になってしまい申し訳ないのだが、これは人間の狂気を描いた映画である。
戦争の善悪だの、殺人行為の善悪だのとは別の話だ。極限に達したとき、人間は人間を喰えるのか、というカニバリズムに対して正面から向き合った映画である。

太平洋戦争における南方戦線で、食人行為が行われていたという事実は、あまり分析研究されていないまま、戦後70年が経過してしまった。そこが日本の戦後のダメなところの一つなのであるが、話が大幅にずれてしまうので割愛する。この分野には詳しくないが、小説などを通じて表面的にこの行為を明らかにしているのは、この「野火」という作品のほかには、「ゆきゆきて神軍」くらいしか知らない。
ニューギニア戦線に於いては「友軍の死肉を喰うべからず」という公式命令すら発せられており、常習化していた疑いがある。南方から命からがら逃げかえった人たちの中には、食人行為を行っていた人も少なくなかっただろう。逆に言えば、そこまで生に固執したものだけが生き残ったのだ。当然のごとく、そんなことは秘匿された。それを訊き出す人も居なかった。それは、大きな失態と言わねばならない。決して人肉食をした人々に対する糾弾ではない。異常事態の中で人肉(しかも友軍の死肉)を食べざるを得なかったという事実と、その心理状態はもっと分析されるべきであった。そして、そのような異常行為を二度と起こさないための研究をすべきであった。だが、それらの生き証人たちも既に殆ど鬼籍に入ってしまっている。もはや事実を知るすべはない。
なお、「ひかりごけ」も戦争中の食人行為の話であるが、事情が大きく異なる。

ただ、小説「野火」における食人行為は、永松という兵隊の個人的狂気の中で行われ、彼を「人食い人種」と呼ぶことで収束していたように思った。勿論、田村もサルの肉と言われて人肉を喰ってしまうのだが、それは事故であって、食人行為を自ら正当化したわけではない。それ故に、最後は狂気の淵に立ってしまうのであるが、それも個人の内面的な問題として解決できるような作品として纏められていたように思う。この作品が世に出た当時としては、そのような結末にせざるを得なかったのかもしれない。

だが、この映画「野火」における食人行為はいかなるものであったか。中村達也演じる伍長が、「ニューギニアでは人肉を喰ってきた」と言ったり、死の直前、自分の腹を指さして、「俺が死んだら、ここ食っていいからな」などと言っている。すなわちそれは、単に個人的問題ではなく、日本軍全体が抱えていた問題という捉え方を意味する。それが事実であるかどうかは別として、そのような冗談が真実味を帯びて聞こえるほど、日本の軍隊は餓えて、狂っていたのだろう。

生では食えない芋、というよりも木の根を喰い、腹を壊す。現地民を殺して入手した塩で生き延びる田村。だが、一方で、人間はどんなに腹が減っても、最後の一本の芋と煙草を交換するんだよと嘯く安田がいる。この、安田の言動は多くアイロニカルであるが、人肉食と対をなす考え方で効果的だ。

永松は既に狂っており、狂人が人肉(このケースでは現地民を殺してその肉を喰っている)を喰うというのは、まだ理解できる。だが、安田は、サルの肉と言われたものが人肉であることを十分理解していたのではないか。その上で、平然と永松に「サル狩り」をさせ、その肉を手に入れていた節がある。そして、それを平然として食っている。この映画の中で、一番の狂気性を感じさせたのが、この安田という男の姿であった。そこに、どうしようもない恐ろしさを感じた。表面的なグロテスク描写よりも100倍恐ろしい姿であった。

強引に戦争という課題と絡めてみれば、この惨状は、補給という課題を蔑ろにした日本陸軍の失態であって、それは太平洋戦争を通じての日本軍全体の問題であった。精神論が優先し、現実論を欠いてしまうと、このような結果に陥る。そして、最終的には神風特攻という愚策に堕ちていく。
この映画を見て、強引に戦争というものを論じるなら、ただその一点のみだ。精神論、理想論を優先するなかれ。戦争に於いては徹底的に現実主義に拘れという事だ。こんな兵隊で勝てる戦争などない。補給を絶たれたら、その時点でアウトという事だ。それ以上戦争を続けることは無意味である。
そこが理解できるかどうかが、この映画を戦争映画として見た時の問題なのだが、この映画で、そのような見方をするのは全く正しくない。
だから、この映画は戦争映画ではないと言っているのだ。

話を元に戻そう。人肉食問題の話であった。

リリー・フランキー演じる安田を殺し、その死体に齧り付く永松。そして、永松に銃を向ける田村。「俺がお前を殺して喰うか、お前が俺を殺して喰うか。お前も俺を喰うに決まってる!」と叫んで、血で染まった舌を突き出す永松。戦慄のシーンであった。
米軍の機銃掃射で斃れていく日本兵のグロテスクな姿の描写よりも、人肉を喰った舌を突き出す永松の姿のほうが遥かに恐ろしかった。
このシーンはちょっとトラウマになる。
虐殺シーンの、手がもげたり、滝のように血が流れたり、脳漿が飛び散ったりするような過激でグロテスクな描写などより、永松の赤く長い舌のほうが遥かに戦慄を帯び、恐怖を感じずにはいられなかった。

この、永松役を演じた森優作という俳優さんは、これがデビュー作だそうである。凄い新人を見つけてきたものだ。

監督と主演は、「鉄男」の塚本晋也。私より一つ年上だったと思うが、田村一等兵役が妙に似合っていた。監督=主演だからこその理解力であろう。プレイング監督というスタイルには疑問を感じる映画も多いが、少なくともこの映画に関して言えば、正解だったというべきだろう。年齢を感じさせないのは、その特殊な環境下における兵隊の表現という部分で、有利に働いたのかもしれない。

昨今、「永遠のゼロ」を筆頭に、最低な国産戦争映画ばかりで辟易としていたのだが、まさかこんな作品が生まれようとは思いもしなかった。その点では、大絶賛できる作品と言ってもいい。
特に、戦争そのものについて、全く触れていない部分がいい。ここで戦争とは何たるやなどと語ってしまっては終わりだ。もはや、彼らは戦争などしていない。生き残ることしか考えていない。いや、それすらも考えていないのではないか。理性を捨て、本能だけで生き延びようとしているのではないか。その時、人は人を喰えるのか。そういう物語である。

しかし、非常に残念な映画でもあった。
出資者が集まらず、自主制作となったそうである。
そこが本当に残念である。
お金がないので、出来る限りの制約の中で作っていることが良く分かる。それが上手く作用した部分と、限界を感じずにはいられない部分があった。

お金が潤沢ではないので、主人公田村が只管ジャングルを彷徨うシーンに終始する。だが、それが逆に、孤独感と絶望感を盛り立てた。時折混ざる、フィリピンの大自然の描写が素晴らしい。戦争中であっても、大自然は揺るぎもしない美しさを見せる。その絶景を前にして、彼にはその美しさすら目に入らない。あるのは餓えだけだ。
ただ、デジタル修正して妙にコントラストが高く彩度を上げた撮影方法は如何なものか。折角の大自然、ナチュラルに表現しても良かったかな?
深読みすれば、田村の眼を通しての大自然は、すでにナチュラルには見られないフィルターが掛かっていたと言うべきなのかも。

それとは逆に、残念だったのがラストシーン。
捕らえられ、俘虜となってから日本に帰国してからの描写までが性急すぎた。性急すぎて、何が何だかよくわからない終わり方になってしまった。それまで徹底的に現実的な描写に終始していたのが、一転して観念的表現になってしまった。お金が回らなかったのだろうなあ。ここは、原作の中でも非常に重要なポイントなので、そこにお金を掛けられなかったという点が、本当に残念でならない。だから、帰国後の田村の奇妙な食事行動が十分に描ききれていなかった。
小説における「神」の存在も無視された。

そこは、予算が無い中で、敢えて切り捨てたと言うべきだろうか。何も映画は原作どおりに作る必要はない。

原作はずいぶん昔に読んだので、うろ覚えで申し訳ないのだが、大岡昇平はキリスト教的観念を持っており、この作品にも神の存在と、それに基づく人肉食に関する描写があったと思う。しかし、塚本はそれをほぼ切り捨てた。教会の中で現地人を殺すシーンでも、神との関連性は表現されていない。だが、宗教的解釈を嫌いがちな現代の日本社会においては、むしろそのほうが正解だったのかもしれない。

個人的には、グロテスクな殺戮の描写で、特殊効果に使った金を、ラストシーンの充実に回しても良かったんじゃないかと思ったりしたが、何たって「鉄男」の監督だからね。そこはね。
あのグロテスク描写には嫌悪感を感じた。勿論、殺戮の描写であるから、あのようなものであった可能性はある。しかし、視覚的なショッキング性を重視してしまうと、精神的なショックに対する感度が鈍る。あそこだけがクローズアップされ、頓珍漢な感想しか持ちえない観客も出てくるのではないか。そこがとても気になってしまった。この映画で語るべきことは、そこではないのだから。

語り過ぎなかったことで、最後に田村が食事の時に行う怪しげな動作が、余計に気違いじみて見えて、そこに何の説明も無いために、反って想像力を逞しくしたのは怪我の功名と言うべきなのかもしれないが、果たして観客にはどこまで理解出来ていただろうか。
実際に、このように書いている私にしたところで、ラストの違和感から原作の最後の章だけを読み直すという反則行為を犯したうえで、この文を書いているのだから。

だが、変にお金があったら、あそこで妻に何か語らせちゃったりして、とんでもない駄作に陥る可能性もあった。勿論、そんなことをする監督とは思えないが、お金がないが故に、削るだけ削ったというところがひしひしと感じられて、そこが痛々しくも、それをバネにして気力で作ったぞという感じがスクリーンから強烈に伝わってきた。

決して「良い」、とは言い難い部分もある(特にグロテスク描写に関して)のだが、見るべき映画であった。
一歩間違うと超駄作になる危険性をすり抜け、ストイックに作り上げた監督の感性を評価しておきたい。

この映画を見て、「こんな戦争は二度と起こしてはならない」と感じるのも一つの考え方なので、そこは否定しない。だが、そんなありきたりの感想だけでは勿体ないと思う。戦争を超越し、人間が極限に達したときの有り様を目の当たりにして、人間というものに怖れをなす。そこに思いを巡らせてほしいと思う。

***

見終わった後、超遅い昼飯。
それでも割と平気で肉とか食えちゃうんだからね。
牛肉って美味しいよね。
それが人間というものなのだろうか。
| 【映画・テレビ】 | 09:59 | comments(0)
サンダーバード ARE GO
NHKで始まった新作サンダーバードシリーズ、「サンダーバード ARE GO」を見た。
旧作と違い、CGを取り込んだ作品なのだが、キャラクター造形が旧作の操り人形を踏襲したデザインになっていて、さほど違和感がない、、、と思いきや。

中途半端に似ているという事が、これほどの違和感を煽る結果になるとは皮肉なものである。

突っ込んでいくとキリがないのだが、わたし的に気になった点をいくつか指摘しておこう。

根本的な問題は、構成とシナリオの悪さである。

まず、救助に対する姿勢が悪い。
人命救助第一でしょ?途中で発見したビーコン追っかけてるんじゃないよゴードン!!
全体的に軽いしなあ、軽いノリは似合わないんだよな。くっそ真面目な奴らが時々おどけるから妙な味が出るんであって、全編おちゃらけでは辟易とするだけだ。

軽さという意味では、危惧していたメカの重量感も、思った通りの軽さで残念であった。これはCGの最大欠点なんだけれども、旧作にあった、重さの表現というのが皆無。重さを表現できていない特撮は、悪いけど二流だ。

シナリオも良くない。
事故に至る過程が全く描かれていない。起承転結が無いんだよね。まず、ゲストのスーパーメカが出てきて、一通りその凄さを説明して、それが些細な(ここ重要)トラブルから大事故を引き起こして絶体絶命。通常の救助では役に立ちそうもない。そこで、国際救助隊に支援を求めて、満を持してサンダーバード登場ってのが基本シナリオなのであって、それをガン無視していきなり出てっちゃうのは如何なものか。

初回の海底探査メカは、スペース1999のイーグル1っぽい感じのデザインで、「おっ、デザイナー分ってるな、やるじゃん」てな感があったんだけど、あのメカが全くの脇役になってしまっていて残念。まずはあれで海底探査する所をじっくり見せないとダメでしょう?
ハラハラドキドキさせられて、サンダーバードが登場するも、一回失敗して(ここ重要)、時間が無くなって、最後のトライで何とかギリギリセーフで救助!というスリルがサンダーバード最大の魅力なんだから、そこを蔑ろにしてはいけない。

第2話の、台北の反射鏡のトラブルについても良く説明されていない。我々は旧作を見ているから、ああ、太陽反射鏡の話のリメイクだなと分かるんだけど、初見の子供たちは、なぜあれが問題なのかちゃんと理解できただろうか?そもそも、あの施設は何?それと、いきなりブレインズが説明しちゃダメでしょ?地震があって、反射鏡がずれて、職員がその問題を発見して、まずい!このままでは台北の町が燃え尽きてしまう。何とかしなければ!そうだ、サンダーバードを呼ぼう!ってのが基本なんだから、呼ばずに出てっちゃダメでしょ?

その点、3話めのペネロープ&パーカーによる宇宙機雷の停止キーワード探しの物語は良くできていた。オチも旧作っぽくて良かったね。この回の脚本はIan Carneyという人だが、残念ながら今のところ、この1話のみの参加。1、2話の脚本を書いたロブ・ホージーって人が全体構成を見てるみたいだけど、構成がダメで1、2話の脚本がダメって、全部お前の才能が無いせいじゃんかよ。イギリスの花田十輝だな(おっと失言)。

1、2話でゲンナリしたのだが、3話で少し持ち直した。これは、シナリオさえ良ければ名作になる。毎回違う脚本家のシナリオになるようなので、出来不出来がはっきり分かれる可能性があるけれども、少し期待が持てそうだ。

次に、個々のキャラクター設定が微妙にダメ。
特にペネロープがなあ。大富豪のお嬢様ですよ。あんな成金娘っぽい外見と言葉遣いじゃないのよ。黒柳徹子さん(旧作でペネロープの声を充てた)は偉大だったなあ。特に外見は、もう少しお姫様っぽくしてもらいたい。オードリー・ヘップバーンみたいな感じでなければ!
むっちゃくちゃカッコいいパーカーにも驚いたが、あれはあれで良い。が、もう少し執事っぽくすべきかな?

それと!料理の物凄く下手なおばあちゃん!!逆でしょ?!全然違う!!まあ、これは意図的なんだろうけどねえ。3話見た限りでは、パパが居ないのだけれど、これは何か新しい設定なのだろうか。

そして最大の違和感はBGM。高揚感まるでなし。オープニングこそ、旧作のメインテーマを今風にアレンジしなおしていたが、本編では旧BGMは全く使用されず、いかにもやっつけ的なBGMが流れていたが、やっぱりバリー・グレイの壮大な音楽をそのまま(演奏はもちろんやり直しでいいけど)使って欲しかったものだ。メカに合わせた音楽の使い方が全く出来ていない。
ヤマト2199がオリジナルBGMを使って成功したのを見習って欲しかったが、イギリスの作品に言っても仕方ないか。

メカについては、前述した「軽さ」がとても残念であるけれども、ミニチュアを併用したという特撮シーンは、良い部分も多々あった。1号と3号の発進シーンは良かったね。特に飛び立ってからの後追いで見上げる構図にはシビれた。いいシーンであった。
逆に2号はダメ。分かってねえよ、動きが早すぎるんだよ。カタパルトから発進するときは、一回少し浮き上がってから軽く沈んで、ゆっくりと滑るように飛び立たないとダメだよ。こちとら穴の開くまで旧作見てるんだぞ、そういうとこ、異常なくらいこだわれよ。(粘着質)

とまあ、不満タラタラなのであるが、本国では好評で全26話が放送予定。さらに第2シーズンも予定されているという。次回は9月の連休と、少し間が空くのだけれど、今から楽しみである。



| 【映画・テレビ】 | 10:33 | comments(2)
FURY
随分日記をサボってしまいました。実は、話題の戦争映画、FURYを見たんですが、これが凄い映画で、普段ならちゃちゃっと感想を書いちゃうんですが、なかなか感想が書けなかったのです。

ほぼ1週間かけて何とか書き上げました。思いっきりネタバレなので、これから見ようと思っているかたはスルーの方向で。

***

戦争映画である。第二次世界大戦の末期、ドイツが舞台。1945年4月という想定だから、ベルリン攻略直前という事になる。

ストーリーは単純明快。一歩間違えると超駄作になりかねないようなストーリー展開だ。簡単にあらすじを紹介しておく。

アフリカ戦線から戦ってきた歴戦の勇者「ウォーダディ」ことコリアー軍曹(ブラッド・ピット)率いる戦車「FURY」号。だが、副操縦士を失ってしまう。代わりに配属されたのが入隊8週間というド新兵のノーマン二等兵。
彼のミスで部隊長を失うことになってしまい、変わりにダディが戦車隊長として4両の戦車を率いていくことになる。
ドイツの小さな街を占領する任務を達成した彼らは、束の間の休息を得る。
ノーマン二等兵は、隠れていたドイツ娘と恋仲になるが、直後のドイツ軍の爆撃で彼女は死んでしまう。
次の任務の途中、ドイツのタイガー戦車と遭遇した部隊はFURY号を残して全て倒されてしまう。残ったFURY号は危機一髪、タイガー戦車を撃破。たった一両で任務遂行に向かう。
最後の任務は、ベルリン攻略を行う本体の後方支援だ。米軍補給基地をドイツ軍から守る任務である。その途中、地雷を踏んで立ち往生してしまうFURY。
斥候に出たノーマンは、300人のドイツ軍がやってくるのを発見する。動けないFURYと300人のドイツ軍では勝負は見えている。
逃げようという部下に対して、残って戦うというダディ。お前たちは逃げろ、というが、全員が残って最後の戦闘を行う。
300人のドイツ兵相手に八面六臂の大活躍であったが、遂に弾切れとなった。次々に狙撃され、ダディとノーマンを残すだけになってしまう。そのダディも銃撃を受け、もうこれ以上は戦えなくなった。
最後にダディはノーマンに向かって言う。「脱出ハッチから逃げろ」
戦闘は終わった。朝になり、ノーマンだけが生き残った。味方に救出され、任務は成功したことが分る。「お前は英雄だよ」と言われながら輸送車に乗り、ボロボロになったFURY号を振り返るノーマンの姿は、勝者の姿ではなかった。

***

歴戦の猛者どもの中に新米が入って騒動を起こす。ミスで部隊長を戦死させたりしてしまうが、ドイツの若い女と懇ろになったりして、一人だけいいとこ取り。最後の任務で隊長以下全員が死んでしまうが、この新米だけ運よくただ一人生き残る映画。

と、書いてしまうと身も蓋もないのだが、そういう話なんだから仕方ない。

じゃあ、駄作なの?
いやあ、そんなことはない。戦争映画の中では一、二を争う大傑作ですよこれは。

ストーリーはある意味ご都合主義だし、プロットも平凡。だが、それを補って余りあるのがセリフだ。この映画はセリフが物凄くいい。

この手のヒューマンドラマ的戦争映画にありがちな、何が善で何が悪だとか、何が正しくて何が間違っているなどという話は一切出てこない。そこが素晴らしい。
安っぽいヒューマニズムなど無い。殺すか殺されるかだ。ドイツ兵を殺すことに躊躇していたら自分が殺される。たとえ敵が子供でもドイツ兵なら殺さねばならない。そこに理由などないし、言い訳も必要ない。それだけの話だ。

ダディのドイツ兵に対する思いは深く強い。目の前にドイツ兵が通れば殴りかかる。生き残ったドイツ兵が家族の写真を見せ命乞いをするのに、ノーマンに射殺させようとする。ノーマンが抵抗すると、強引に引き金を弾かせ、無抵抗のドイツ兵を射殺する。(その後思いっきり頭を抱えて苦悩しているシーンがあるのだが、セリフは一切ない。だからその意味は分からない。)

最後に、ダディとノーマンだけが生き残ったとき、ノーマンが投降しようと言うと、ダディは諭すように言う。降伏したほうが拷問を受けて酷い死に方をするんだと。それは一見、ダディのドイツ兵に対する憎悪のようにも思えるが、我々は映画の途中で出てくる、街道に吊るされたドイツの民間人の事を思い出さざるを得ないだろう。彼らは、銃を持つことに抵抗し、首から「私は戦う事を拒否しました」というプラカードをぶら下げられて吊るし首になっているのだった。男だけでなく、若い女の死体もあり、さらし者になっているのだ。
そんなものを見てきたのだから、拷問されると思うのも道理というものだろうか。

セリフの中に訓話めいたものは一切ない。ただ、バイブルとあだ名された砲手(シャイア・ラブーフ)が引用する聖書の言葉が比喩的に語られるだけだ。

我々日本人には馴染みのない聖書の言葉なので、その意味を理解出来ている人は少ないだろう。私は学生時代、興味本位で聖書やら宗教本を読み漁った経験があるので、多少の知識はある。クリスチャンが感じるであろうこの映画への思いと、我々「ご都合的にファッションで宗教を使う」日本人が感じる思いとの差はいかばかりかと思う。
この映画は、そういった知識があると無いとで、見方が全然変わってくるのだ。

それは最後の攻防戦で顕著になる。

戦車が地雷を踏んで走行不能となる。味方は他に居ない。そんな中、300人のドイツ兵団が攻めてくる。普通は逃げるだろう。だが、ダディは逃げない。一人で戦おうとする。
「俺は戦いから逃げたことはない。今でも逃げようとは思わない。ここは俺のホームだ。だから捨ててはいけないのだ」と言う。
それは、任務遂行が最優先という意味ではなかった。
それに感じるものがあった新兵ノーマンが、自分も残るという。新兵に残られてはあとの3人も具合が悪い。
全員が戦うことを決意し、持ち場に着いた時、バイブルが言う。

『その時、私は主の声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」 私は言った。「私がおります。私を遣わしてください。」』

それに応えて、ダディが言う。

「イザヤ書第6章第8節だな」

バイブルは一瞬驚き、そして笑う。
そうだ、あれほどドイツ兵を憎み殺してきたダディも、敬虔なクリスチャンだったのだ。

この一節はとても重い。そしてなるほどと思わせるものがあった。イザヤ書第6章第8節は、イザヤが預言者として致命的であったと感じていた時、主の恵みを経験し、その恵みによって預言者として任じられることになった重要な一節である。

キリスト教徒であることと、戦争をすることは全く異なることだ。人殺しはいけないことだが、戦争は違うのだ。主の恵みによって預言者となったイザヤ同様、彼らは兵士として自分の任務を遂行するのだ。では彼らの主は誰なのか。彼らに恵みをもたらしたものは誰なのか。

ここは、解釈を間違うととんでもない事になる。私自身、ここをどう解釈すべきか、未だに悩んでいる。だから、米国では賛否両論の映画なのだという。残念ながら、このニュアンスは日本で生まれ育ち、キリスト教を身に着けてない日本人には分りそうもない。

最後に、ダディへの痛烈な皮肉とも思えるシーンがある。
脱出口から逃げ延びたノーマンは、戦車の真下の地面に隠れる。だが、その姿を若いドイツ兵が懐中電灯で照らしてしまった。ノーマンは恐怖に震えながら両手を挙げる。だが、そのドイツ兵はそのまま立ち去ってしまう。このシーン、若いドイツ兵が見逃してくれたのか、それともよく見えなかったのかは分らない。
ノーマンは、若いドイツ兵を見逃したことで味方を敵に殺されることになってしまった。だが、自らは似たような年恰好の若いドイツ兵から見逃して貰う事で生き延びられたのだ。何という皮肉だろうか。

この後、おそらく連合軍はベルリンに突入し、戦争は終結する。アメリカ軍は勝ったのだ。だが、全然勝った気がしない。こういう映画を作れるアメリカの凄さをまざまざと見せつけられてしまった。

全編、セリフが凄いので、見ていて全く気が抜けないのだが、いかにもお調子者で下品なヤンキー兵「クーンアス」を演じたジョン・バーンサルには救われた。彼の下品な行動とセリフは、緊張の中に笑いと安堵をもたらしてくれた。でも、一番最初に死んじゃうんだよな。

とまあ、重たい映画なのだが、何度でも見直したいと思う映画である。近年の映画の中でも最高傑作と言っていいだろう。特に脚本が素晴らしい。アカデミー賞候補の噂も出ているが、是非とも脚本賞を与えたい作品だ。

最後にひとつだけ補足。FURY とは、激怒するという意味だ。復讐の女神、怒り狂う女なんて意味もある。我らのFURYは、何に激怒していたのだろうか?

 
| 【映画・テレビ】 | 22:02 | comments(0)
ゼロ・グラビティ
スペースシャトルでの作業中に、宇宙ゴミ(壊れた衛星の破片)が大量に押し寄せ、スペースシャトルが破壊されてしまう。船外活動を行っていた3人のうち一人は即死。残る2人は無事地球に戻れるのか?

という映画をレンタルビデオで借りて見た。(以下、ネタバレ多数注意)

ジョージ・クルーニー扮するコワルスキー船長と、サンドラ・ブロック扮するストーン博士が生き残るのだが、最終的にはストーン博士だけになる。以下、サンドラ・ブロックの一人芝居。

というか、クレジットされてる俳優はこの2人だけ。即死したシャリフ飛行士も声だけで、俳優が演じている部分はない。サンドラ・ブロックの圧倒的な一人芝居なわけだが、出世作、「スピード」で、暴走バスを無理やり運転させられる役だったのを思い出した。

ちょっと引っかかったのは、ソユーズも中国の宇宙ステーションもインディ・ジョーンズ的な無敵っぷりで、、いとも簡単に操縦しちゃったことで、痛快ではあったが、ご都合主義的な流れはちょっと頂けなかったかな。

それにしても、90分の映画だが、あっという間だった。

ところで、宇宙技術開発株式会社という所が、「映画ゼロ・グラビティについて」という専門家から見たツッコミを書いているんだが、これがまた面白い。

http://www.sed.co.jp/tokusyu/gravity.html

このサイトの秀逸なところは、けなすだけじゃなくて褒めてもいるという点。最近の映画批評は貶すばっかりで、褒めるにしても感動したとか面白かったとか、どうでもいい単語しか並んでいないところが多いのだが、ここは違うので、ゼロ・グラビティ見た人にはお勧めしておく。

特に、スペースシャトルは宇宙では進行方向にお尻を向けて飛ぶのが正しいとか、目からウロコ的な知識が書かれていて、これを読んでからもう一度映画を見ると、さらに楽しめること請け合い。

ただ、ここでも指摘されているが、ラストで着水後にハッチを開けてしまったのは少々頂けなかった。少し泳いだだけで浅瀬に着いてしまうのも、ご都合主義的すぎた。同じご都合主義でも、すぐにレスキューが到着して助け出されるようにしたほうが実感的だったと思うのだが、この映画はサンドラ・ブロックが「一人で」帰還しないと意味が無いんだね。そのあたりも映画的な終わり方である。

公開時は3D上映もされたようだが、2Dで十分楽しめた。大きなスクリーンの必要もないと思った。それだけ良くできた映画なので、3Dなどによるこけおどしは逆効果になるような気もする。何でも3Dにすりゃいいってもんじゃないんだよね。



 
B00G1W3UKI ゼロ・グラビティ ブルーレイ&DVDセット(初回限定生産)2枚組 [Blu-ray]
ワーナー・ホーム・ビデオ 2014-04-23


by G-Tools
| 【映画・テレビ】 | 18:17 | comments(2)
今更ですが、ヤマト2199を見て。

 ようやっと録画しておいた宇宙戦艦ヤマト2199の最終回を見た。
今更ながらという気もするが、簡単に感想を書いてみることにする。
以下、とてつもなくネタバレなので未見のかたは注意。

***

 以前もどこかで書いたような気がするが、オリジナルヤマトで一番気に入らないのが、森雪が死んで生き返るシーンである。生き返るのはまだいいが、何の理由づけもなく生き返ってしまうのは、子供心に「それってどうなのよ?」と、思わざるを得なかった。

 今回のヤマトも、基本的シナリオはオリジナル版を踏襲しているので、やっぱり森雪は死んで生き返るのだった。以前書いたようにイスカンダル人だったとか、ロボットだったとか、そういうギミックは無かった。

 なるほどね、コスモリバースシステムを使って人間を甦らせることも出来るっていう設定か。その決断をしたのは古代守の意識。そして、古代の意識を失って停止したコスモリバースシステムを再生したのは沖田艦長の意識で、それと同時に艦長は死ぬという流れだ。良く考えたなあ。これは破綻もなく、多くの制約の中で、現時点では最高の解釈ではないか。出渕裕恐るべし。全面降伏だ。これは前回の欠点を補って余りある素晴らしい結末だった。

 この設定の唯一のウィークポイントである、オカルティックなシナリオ(古代守の残存意識)を補完するために、ユリーシャを考案し、彼女の思考意識が館内を浮遊して岬百合亜に乗り移るという複線を敷いているんだな。ヤマトらしくないオカルティックな設定には、そういう裏があったのか。

 今回の2199で、唯一惜しい点を挙げるとするならば、それは尺の問題ではないだろうか。画期的なガミラスとの平和交渉の場をさらっと流したのは何とも残念。デスラーとの二度に渡る戦いも、書ききれていない感を強くした。あと6回は欲しかったところだ。13回あったら冗長的になりすぎる。なかなか難しいね。

 ネット上での感想を見ると、水着で遊ぶ回なんざカットして、そういうシーンをちゃんと描くべきだったなどという意見もあったが、私はあの水着シーンも結構重要だったように思う。あれで、本当に戦いが終わったんだなという気持ちが強くなったし、パフェに出会うガミラスのメルダの態度は、流石にちょいとやりすぎな感じがしたが、微笑ましいシーンでもあった。戦いが終われば、少女は普通の少女らしく生きるのだ。

 前にも書いたが、リメイクにはあまり良い印象を持たない私が、この作品を大きく評価するのは、BGMである。絵より、オリジナルを踏襲したBGMのほうが重要であるという事を大きく知らしめることが出来た功績は大きい。これが、まるで違うBGMだったら(後半の主題歌のように)、ここまで人気作品になりえたかどうか、疑問なところだ。

 なお、ヤマトは完全新作の映画が作られるそうであるが、それが続編なのか、もう一度リメイクするのかは全く知らされていない。個人的には、続編よりも、正編からスピンアウトしたサイドストーリーなんかのほうが面白いと思う。シュルツ一家の話とか、フラーケンに救われた藪のその後の話とか。

 ヤマトは、イスカンダルに行って帰ってくるまでの物語である。もう一度どっかに行くのはヤマトの話ではない。

 続編として、ちょっと嫌な感じがするのは、スターシャと原田真琴の腹の中に子がいることだ。それに古代進と森雪の子とか絡んで来たら、どこのスターウォーズだよ的な展開になってしまうが、まあそれは考えすぎかなあ?

 最後に、今回のキャラクターでは原田真琴がいい感じだったが、最後に加藤とくっついてしまったので、ワタシ的には意外にも新見薫が良かったと言っておこう。山本玲は、やりすぎだね。

| 【映画・テレビ】 | 17:48 | comments(0)
やっぱりクドカンとは相性悪かった。 〜あまちゃん終了に寄せて

  毎日適当に楽しみにしていた「あまちゃん」が終わって、私の周囲では腑抜けになっている人が多いのですが、そこまでハマらなかった私は、むしろ終わってスッキリした感じ。
 
 色々な人が色々な感想を述べているので、今更感はあるのですが、ふたつみっつほど、私なりの感想を書いておきます。

 やっぱり俺、クドカンとは相性悪いわ。

 ま、そういう事なんですけど。クドカンからは愛を感じないんだよなあ。あと、最後まで引っかかったのは、病院で騒ぐシーン。ああいう事を書いてしまうのはいかがなものか。誰かが潮騒のメモリーズが選挙応援するのは違反だなんて書いてたけど、そんなことより、もっとベースの話で、病院で大騒ぎしたり、あまちゃん自身、結構他人に失礼な物言いをしている所が多くて、そこがどうしても受け入れられませんでした。

 初期にNHKの公式サイトに載っていた、天野冬美−榊原郁恵のキャスティングが無くなってしまっていたのも謎です。春子、夏、アキと来て、冬がいないのは片手落ち。何があったのか知りませんが、冬美を書ききれなかったのだとしたら脚本としては失敗じゃないのかな?

 あまちゃんに於いて、色々評価されていたのはクドカンの仕事だけではなくて、NHKの大道具さんだったり小道具さんだったり、演出家の仕事のほうが大きかったりするのではないのかな?とも思います。ネットでは誤った拡散をしてしまいましたけど、正宗さんが乗ってたヒュンダイ製のタクシーなんて、数年前までは良く見かけたけど今は殆ど絶滅しているはず。そんな車をわざわざ見つけてくる労力!海女カフェイベントでの、弥生さんの美空ひばりみたいな衣装は、衣装さんの手作りで物凄く時間が掛かったのだとか。
 そういう裏話を聞けば聞くほど、このドラマを成功させたのは脚本家だけではないと言いたいんですが、世間はクドカン凄いに終始していて、そこがどうも気に入りませんね。

 震災の表現のしかたには痺れました。だからこそ、それ以後は蛇足だった感があります。GMTって結局何だったのか。収め切れなかった伏線も、脚本という視点で見たときには必ずしも良いものとは言えないんじゃないかなあ、と思います。

 能年玲奈という逸材を見出したのも、このドラマの成功の要因ですね。小泉今日子や、薬師丸ひろ子、古田新太も良かったけど、何と言っても能年玲奈、そして若春子役の有村佳純。この二人を見出したのは、とても大きかったと思います。能年ちゃんには、このまま延びて欲しいもんです。

| 【映画・テレビ】 | 12:17 | comments(0)
冷たい熱帯魚ぎょぎょぎょぎょ。

  全国のあまちゃんファンのみなさん、今日もあまちゃん見てますかー?
 東京編が始まって、三陸編に思い入れが深かった私は東京編つまんないだろうなーと思っていたんですが、さすがはクドカン、飽きさせませんねえ。でも、三陸編で上手い具合に発散されていたクドいギャグが、東京編では鼻につきます。俺の嫌いなクドカン脚本です。まあ、いいか。

 で、その三陸編に、人の良さそうな袖が浜漁協の組合長役で出演しているでんでんさん、観光協会会長で、北鉄のジオラマ作りをするなどちょっとオタクっぽい感じの菅原さん役で出演している吹越満さんが出演している映画、「冷たい熱帯魚」を見ました。

 見ました。

 視ました。

 みました。

 ミマシタ。

 うげげげげげ。

 ごごごごごご。

 おおおおおお。

 殺した死体を風呂場で鼻歌歌いながら切り刻む組合長が不気味すぎる!(あまちゃんのキャスト名で呼ぶなってば)

 当分、もつ焼き食いに行けない。

 あまちゃん大好きでハートフルな映画大好きな人は絶対みるなよ。みちゃダメだぞ。死ぬぞ。トラウマになるぞ。俺なんか寝る前にポータブルDVDで見ちゃったんだぞ。おかげで良く眠れなかったぞ(実は、そんなことはない)。

 園子温監督、同い年なんだよねえ。こういうえげつない映画撮るんだねえ。参ったわこれ。興味のある人は、まず、ググって内容を理解してからDVD借りてね。

 真面目に映画について一言添えておくと、最後が冗長的だったかな?菅原さんが組合長を刺し殺す所で終わりでも良かったと思う。(だからあまちゃんのキャスト名で言うなって)

 ※ラストについては、園子温監督も同じ発言をしているようです。

冷たい熱帯魚 [Blu-ray]
B004WI2A04
| 【映画・テレビ】 | 09:16 | comments(0)
あまちゃんの暴力。

  NHKの朝ドラ、あまちゃんが人気のようである。
 朝の放送時間は、通勤電車の中なので、毎日見るわけにはいかない。たまに遅出の時に見たりすることはあるが、基本的には週末土曜日のBS放送をまとめ見している。
 朝ドラを録画して見るっていうのも何だか大げさな気がしてしまうし、特に「あまちゃん」は夜見るドラマではないと思うからだ。

 クドカン脚本とは基本的に相性が悪くて、何が面白いんだかさっぱり分からない作品が多いのだが、そのあざとさと、混沌とした雰囲気が、朝ドラに合うとは思いもしなかった。かなりの部分で、前作の悪いイメージからの脱却という意味も含めて、甘い採点になっている人が多いと思うが、あんまり深く考えずにげらげら笑える朝ドラというのは、やっぱり良い。

 主人公の天野アキ役の能年ちゃんが、とても表情が豊かで可愛らしく、そこもプラスの要素である。脇役もいい。

 だが、やはり世の中にはクドカン脚本と徹底的に相性が悪い人もいる。小泉今日子が嫌いという人もいる。朝ドラには興味ないという人もいれば、そもそもテレビがないという人もいる。

 そういう人が、あまちゃんについて語っている中に入ると、随分と肩身の狭い思いをするようだ。「何で見てないの?」と追求されてしまう。ダメなものはダメなのであって、わざわざ他人に説明するようなものでもないと思うが、嫌いだからというと、驚いたような顔をされるという。

 日本人ってのは、どうしてそういう思考回路になっちゃうんだろうね。迎合することを強要するっていうかさ、見ていないことを非難されてしまう。そんなの、個人の好き勝手でしょうに。

 第一、視聴率20%ってことは、単純計算で、5人に1人しか見ていない計算になる。つまりそれは世間一般的に少数派なのに、多数派であるような感じになってしまうのだなあ。そこが、暴力的でもあるということだ。

 私は今回のあまちゃんは、たまたま気に入って見ているが、以前の朝ドラで、カーネーションは見ていなかった。主役の尾野真千子と相性が悪かったからだが、その話をすると、みんな意外そうな顔をした。嫌いなものは嫌いなんだから仕方あるまい。尾野が悪いっていうより、河瀬直美が悪いんだけどさ。それについて多くは語らない。

 自分と尺度の合わない人を排斥するのは良くない。あまちゃんは面白いから見ろ!というのも良くない。「あまちゃん面白いよね?」「見てない」「ふーん」で済ませるべきだ。「何で見てないの?」余計なお世話だ。

 これこれこういう感じで面白いんだから、見てみなよ。というのはまだいい。何で見ないの?と詰問するような言い方は良くない。挙句の果てには変人扱いだ。変わってるのは自分のほうかもしれないのに、そんなことは、これっぽちも思わない。「あまちゃん」の人気が上がるにつれ、そういう考え方の人が増えているように思う。要注意だな。

 ところで、物語も中盤に入り、いよいよアキが東京へ行く話になっていきそうなイメージである。ちょっとだけ公式サイトから先読みすると、この後アキは上京してアイドルグループに参加するようだ。そうなっちゃうと、何だか詰まらないドラマになってしまうような気がする。北三陸だから良かったのにねえ。わざわざ東京でやんなくてもいいじゃん的な。

 今後も、一応まとめ見は続けていくつもりだけれど、果たしていつまで見ていられるかな?

| 【映画・テレビ】 | 14:52 | comments(4)
また、やっちまったなあ。パーフェクトブルー

 ※同名のアニメ作品が他にもありますが、ここでは宮部みゆきの小説と、その映像化作品についての話をしています。

 映画やテレビドラマの様々な制約を受け、既存小説を映像化することの難しさを感じることは多いが、とりわけ宮部作品の映像化に、その困難さが顕著に現れることが多い。

 語りたくもない、森田芳光の超駄作「模倣犯」を筆頭に、「ガメラ」の金子修介を監督に据えた「クロスファイア」も、出来はもうひとつであった。模倣犯は論外だが、クロスファイアはミスキャストなのがどうしても頂けない。そこは大人の事情なんだろうな、とは思いつつもも、折角の金子修介監督を活かしきれていないもどかしさを感じたものだ。責任の大半は脚本にあると思っているが、悪名高き横谷昌宏が参加してるからね。

 一方で、ほとんど脱帽ものの凄い作品に化けたと言えるのが、大林宣彦が監督をした、WOWOWのドラマWでの作品、「理由」だ。これは多少メタフィクション的解釈も加わっているが、大筋で原作との乖離が無く、さすがは大林(私自身は、大林監督を手放しでは評価していないが)と唸らせる出来であった。

 WOWOWのドラマWシリーズは、その初作品である「センセイの鞄」を筆頭に名作揃いで、宮部作品も「理由」のほかに、「長い長い殺人」「パーフェクトブルー」が製作されている。

 が、今回語るのは、そのドラマWで放送されたパーフェクトブルーのほうではない。昨年、TBSの月曜ドラマで放送された、瀧本美織主演の作品のほうだ。

 小説のドラマ化で一番やってはいけないことというのは何だろう。私は、脚本改変よりも、キャストの性別や年齢を変更することではないかと思う。そして、主人公のイメージは極力、小説に書かれているものを踏襲すべきだと思う。

 記憶に新しい駄作ドラマ「ビブリア古書堂の事件帖」では、イメージの全然異なる剛力彩芽を強引に主人公に据えたのが失敗だし、妹が弟に性転換していた時点で見る気が失せた。

 で、このTBS版パーフェクトブルーも、残念ながらその愚行をやらかしちまってるのだった。どうしてテレビって、こんなにダメなことを平気でやっちゃうのかねえ?

 原作では主人公の加代子は髪の長い女性で、その髪の毛を後ろで束ねて「しっぽ」のようにしている。そこは彼女の特徴のひとつなので、必ず再現させるべきなんだが、瀧本美織は見事なショートカットなのであった。ただ、性格的な部分とか大筋では原作のイメージを壊しているほどではないので、まあ、それは許せる。
 だが、加代子と糸子の親は、原作では父親なのに、ドラマ版は母親になってしまっている。
 仰天ですよ。母親!それはない。
 その他の調査員たちも全員女性だ。中年の調査員「ミミ」さんが根岸季衣演じる中年の女性調査員になっている時点で興ざめ。これじゃ「ミミ」の理由もへったくれもないじゃないか。

 内容的にも、小説の語り主になっている元警察犬のマサの設定がまるで活かせていない。もう少し、ポイントポイントでマサが「語ら」ないと、この作品の面白さは表現出来ないのに、そこが分かっていないというのは圧倒的に脚本家が悪い。折角、マサの声に船越栄一郎を当てているんだから、もっと上手く使わなくちゃ。

 そういう、宮部作品ならではの細かい設定を100%無視していては、面白い作品になろうはずがない。

 何の予備知識もなく、第一話を見て壮絶な違和感を感じた。こんな話だったっけ?

 久々に原作を取り出して読み返してみたが、原作は面白いね。おもわず引き込まれて短編集のほうは一気に読みきってしまった。さすがは宮部みゆき。
 ところが、第一話は、小説の短編集の1エピソードを下敷きにしているものの、内容はプロットを徹底的に改悪していて、これでは宮部みゆき原作の名が泣くというものだ。原作というより原案とすべきじゃないのかなあ?

 しかも、オリジナル脚本の回が、輪をかけて酷い。やたらとお涙頂戴的な泣かせ話に仕立ててあるだけで、物凄く不自然な話だったり、ご都合主義過ぎたり。これは続けて見る気にはならないなあ。テレビ放映時の視聴率は最高で9.2%、あとは7〜8%台をうろちょろしていたらしい。さもありなん。

 瀧本美織見たさに(笑)全編我慢して見たが、ゲストのキャスティングとか、決して悪くないのに全体的にダメなイメージが漂ってしまうのは、本当に脚本家と監督の責任なんだろうな。

 印象に残ったのは、タクシーの運転手の中年女性役を演じた愛華みれ。とても元宝塚のトップスターとは思えないオバサンっぷりに拍手。話はグダグダだったけどね。
 その他、利重剛、杉田かおる、横山めぐみなど、なかなか見せる配役をしているのに、そこが活かしきれていないのが本当に残念だった。

 しかし、宮部さんも懲りないでよく映像化させるもんだね。

 

宮部みゆきミステリー パーフェクト・ブルー DVD-BOX
B00AMAHRCW
| 【映画・テレビ】 | 11:01 | comments(2)
うちのホンカン

  昨日は、模型を作りながら溜まっているビデオ鑑賞。
 倉本聰原作、大滝秀治主演の「うちのホンカン」全6作中第5話までを一気に見る。
 倉本聰全盛期の作品のひとつで、大河ドラマ「勝海舟」直後、同時期に「前略おふくろ様」と、優れた作品を連続して排出していた時のものだ。

 東芝日曜劇場で半期〜1年に1作のペースで作られていた作品だが、日曜夜9時という時間帯は、裏番組に日テレ時代劇(子連れ狼など)、日曜洋画劇場などがあり、残念ながらリアルタイムで見た記憶がない。

 長い間、未見のドラマであったが、昨年、主演の大滝秀治さんが亡くなったのをきっかけにしてDVD化され、やっと見ることが出来た。

 倉本脚本らしく、北海道を舞台にしたドラマで、主演の大滝は駐在所の警官。その妻役に八千草薫、娘に仁科明子という配役であった。

 初回放送が1975年、それから半年〜年1作くらいのペースで作成されたが、1977年の第4作放映後に仁科明子が松方弘樹と結婚し引退、仁科の亭主役の室田日出男の覚せい剤不法所持事件などで中断。仁科、室田を外し、夫婦揃って別の地域に転勤という形で81年に2話が作成され、完結している。

 内容は、DVDを見て頂くとして、仰天してしまうのは、第一回放送時(1975年)に大滝さんは50歳であったという事だ。今の私より若いのである。愕然としちゃうね。
 八千草さんも第一回放送時はまだ44歳だ。二人とも、今の基準で見ると結構な中年なのだが、じっくり見てみると若いんだよな。

 「北の国から」シリーズにそのまま繋がっていく作品として、倉本ファン、大滝ファンならずとも一度は見て頂きたい作品である。



 

うちのホンカン [DVD]
B00ADYYOFU
| 【映画・テレビ】 | 14:20 | comments(0)
<< | 2/8PAGES | >>


ご意見、ご要望は、こちらまで




雀坊堂関連サイト - ゆきうぇぶ


コレクションとカメラの雀坊堂